金曜日に詩を作ってきた。
金曜日に詩を作ってきた。
とある出版社で開催されたワークショップに参加して、
自分の言葉が普段いかに縛られているかを感じてしまった。
仕事で文書を作るとき、もちろん言葉を使う。
その時注意しなければならないのが解釈の余地を残してはいけないということだ。
思うに、主語⇒述語という順序と組み合わせを崩してはならないし、
簡潔に伝わるように、起こった事象を説明する以上の言葉はなるべく省いて書かれる。
ワークショップ内で出ていた例を借りれば、
例1:私の思い出の詰まった水筒を失くした。
という文章になる。
(もっと言うと、恐らく「思い出の詰まった」は「大切にしていた」になるか、カットされる。)
ただ、詩ではこれを次のように崩すことがある。
例2:私が一杯詰まった思い出の水筒がなくなった。
「私」という物質が「思い出」に一杯詰まっているということはあり得ないので、
普段はこんな文章を書くことはない。
けれども、例1の文章よりもずっと、水筒がなくなったことに対する悲しさ・寂しさが
込められているように読める。
「思い出」に「私」が詰まっているということは、なくした水筒とともに過ごした数々
の「思い出」が「私」を形作っているということを本人が自覚しているということであ
り、つまりは水筒が「私」の一部でもあったということを意味するからである。
このように、詩の自由さは、事象をいかようにでも記述できるからこそ、数ある言葉の
中から特定の言葉を選んだことに対して理由や意味を込めることができることにあるの
だと思う。
逆を言えば、どんな人がどのような書き方をしても、
そこには意味や理由があることを認められうるのである。
(とは言え、上手い下手はあるし、良い詩悪い詩というのもあるはず。)
そういう自由さに、なんとなく憧れる。